舞台「鋼の錬金術師」を見て

小学生の頃大好きだった。

文学小説を書くようになってもファンタジーへの恋を忘れられないのはたぶんハガレンのせい。

ということで感想。

 

ラスト役、沙央くらまさん!

雪組の「ひかりふる路」大好きででも生で見られなかったからお目にかかれて本当に嬉しかった。

ありがとうございますありがとうございますありがとうございます。

 

……くらまさんへの愛が先行してしまった。

ハガレンは原作が大好きすぎて舞台見るのが怖かった。

けど見てよかった!!

皆様演技が上手い!!

欲を言うなら歌をもっと聞きたかったけど。

 

感想の前に内容。

主人公は片腕片脚を失った兄エドワードと肉体を失った弟アルフォンスのエルリック兄弟。

 

二人は錬金術師で、禁忌を犯した罰として肉体の一部、 もしくは全部を「真理」に奪われてしまった。

鋼の錬金術師」で描かれる錬金術は古代に実在した「錬金術」 とは別物で、いわば魔法に近い。

ハウルの動く城」等で扱われる普通の魔法と決定的に違うのは、同じ質・同じ量でなければ錬成できないという制約があることだ。 (質量保存の原則)

たとえば、 枝から木製の杖を錬成することは可能だけど鉄製の机をつくることはできない。

この法則を超越できるアイテムとして「賢者の石」が存在する。

さて、そもそもエドとアルが犯した禁忌についてだが、これは「死んだ人間をよみがえらせること」だった。

幼くして父は家を出ていき、 母を頼って生きてきたエルリック兄弟。

ところが二人がまだ小学生くらいの年齢であった頃、 母が急死してしまう。

この時すでに錬金術が使えたエドとアルは母を錬成しようと画策する。

人体を構築する材料(水、アンモニアなど)を買い集めれば、等価交換の原則に従って人間を一人錬成できると考えたのだった。

ところが人体錬成は錬金術の禁忌であり、錬成中にエドは脚を、アルは肉体の全てを「真理」に「持って行かれて」しまう。(錬成は失敗し、母は人間の姿をしていない)

「真理」からアルを取り戻すため、エドは質量保存の原則に従い、自らの片腕を犠牲にアルの魂を錬成したのだった。

家にあった鎧にアルの魂を定着させたため、 アルは鎧の姿をしているが肉体を持たない。

人体錬成を提案したことに責任を感じるエドは鋼の義手・ 義足を得て、アルと共に身体を取り戻すための旅に出るのだった。

 

人間を構成する材料を集めて人体を錬成しようと試みても「人間」 にはならないということ、また後にアルが苦悩するように「肉体を持たない魂は人間といえるか」等、 哲学的な思考が巧みに組み込まれている。

 

旅に出るにあたってエド国家錬金術師の資格を取得し軍人となる 。

元の身体に戻るための情報収集にはこれが最も効率的なのだった。

物語の舞台は西洋風の軍国主義国家(アメストリス)だ。

アメストリス国内には少数民族イシュヴァール人がいて、軍部は数年前のイシュヴァール殲滅戦にて国家錬金術師を投入、大量殺戮をおこなった。

エド国家錬金術師になったのは戦後だが、それでも「人間兵器」 として差別的な扱いを受けることがある。

少年漫画にしてはあまりにもハードな設定で好き。

これ私小学生の頃から「面白い」と思って読んでるんだけど、 なんか全然小学生向けではなくない?

これ大好きな小学生ちょっと気色悪いな。

 


舞台化されたのは

エドとアルが旅に出るまで

エドが軍部に所属、研究のためタッカーとの関りを持つ

エドが生き残りのイシュヴァール人(スカー)に命を狙われる

④ 兄弟の幼馴染ウィンリィの登場、アルの苦悩

エドとアルとウィンリィが妊婦の出産を支える

⑥ 兄弟とウィンリィの束の間の別れ。悲しい感じではなく元気に。

 

 

以下、注目した点。

エドが軍部に所属、研究のためタッカーとの関りを持つ

エドとアルは生体錬成に詳しい国家錬金術師ショウ・ タッカーのもとを訪れる。

タッカーの娘ニーナ、飼い犬のアレキサンダーと共に、 兄弟は穏やかな日々を送る。

タッカーは2年前に人語を喋る合成獣を錬成して資格を獲得した。

ところがこれは自分の妻を獣と組み合わせて錬成した結果であった 。

そして次にタッカーはニーナとアレキサンダーを合成した獣を錬成してしまう。

母を錬成しようとした兄弟と娘を合成獣に錬成したタッカーは本質 的に同じだとタッカーは主張する。

エドは「違う」と感情的になってタッカーを殴るが、この問いかけは本当にすごい。

タッカーはあまりにも残忍だが、「 生活していく金がほしかったし研究者として可能性があるなら試し たかったから」と「お母さんを取り戻したかったから」 の動機に違いがあるだけで、 兄弟の過ちもまた同質の残忍さを持っているではないか、ということだ。

小学生の頃は「全然違うよ!」と思ったけど今はそう言い切れない。

恣意的に人の命を弄んでしまったという点でエルリック兄弟とタッカーは同じだから。

うなって考えてしまう。

 

エドが生き残りのイシュヴァール人(スカー)に命を狙われる

同胞殺しの国家錬金術師を恨むスカーは手当たり次第に国家錬金術師を殺している。

そのスカーにエドも狙われるのだった。

エドは戦争に行っていない。

それでも「信教が違うから」 という理由でアメストリス人に受け入れてもらえず、 大量殺戮の対象となってしまったイシュヴァール人の恨みは深かっ た。

原作では「ゆるす」ではなく「たえる」 を使っていたのが印象的だった。

「ゆるさなければならない」のではなく「 たえなければならないい」。


④兄弟の幼馴染ウィンリィの登場、アルの苦悩エドとアルを心配する保護者がいる。

幼馴染のウィンリィだ。

アルが「魂しかないこれは本当にアルフォンスなのか」 と思い悩み、その不安をエドにぶつけてしまう。

自分が持つ記憶も意思も全てエドが錬成したものではないかとアルは疑ってしまうのだ。

自分とはなにか、自分を自分たらしめているものはなにか、 自分が自分である証拠はなにか、という問いかけが私にも刺さる。

もし私が肉体を持っていなかったとしたら、この魂が私のものであるということはどうやって証明すればいいだ ろう。

アルが悩むのももっともだ。

それに対するウィンリィの答えはこうだ。

「どこの世界に自分の腕と引き換えに偽物の弟をつくる兄がいるっていうのよ」。

アルは自らの存在の証明を、エドとの間に結ばれた強固な兄弟愛に見出すことができるようになった。


エドとアルとウィンリィが妊婦の出産を支える

ウィンリィの希望で鋼の義手の聖地ラッシュバレーに行く。

3人はそこで妊婦に出会い、命の誕生を支えることになる。

エドの「錬金術師が何千年かけても成功しなかった『 人間が人間をつくる』ことを、 女の人はたった280日で成し遂げるんだ」 というようなセリフが印象的だった。

原作者の荒川弘さんは「鋼の錬金術師」執筆中に妊娠・ 出産を経験されたと聞く。

人間の誕生や存在に対する洞察の鋭さ、表現の繊細さは、この時期だからこそ描けたものなのかなと思った。


この緻密に練られたファンタジー、本当にすごい。大好き。

原作も好きなんだけど、旧アニメ版のオリジナル設定も(賛否両論だけど)私は好き。

人体錬成で人間によって生み出された人造人間がエドとアルに逆襲する。

その中にはもちろんお母さんの姿をしたものもいて…という話。

お母さんの姿をした人造人間を倒す回結構感動したんだけどあんまりそういう声聞かないな。

やっぱオリジナル展開は原作より残酷だったから(特にエドが救ったと思ってた町が実は内戦状態に陥ってて軍人に暴行されたロゼが子供産んでたりとか)、 視聴者にトラウマ植え付けた?

戦争の悲惨さを真摯に描くという意味では高く評価されていいと思うんだけどな。


総括。ハガレンは舞台でもすばらしい作品でした。

それぞれ異なるキャリアの役者さんで作る舞台は劇団で作る舞台と はまったく違ってまた良かった。

歌って踊って芝居しての舞台に見慣れていたので誰も踊らないのが新鮮だった。

踊らない代わりにアクションが充実。

ちょっと宝塚とかでは見られないので面白かった。

 

舞台なので役者に注目しよう。

まずマスタング大佐が本物じゃん…と思ったし、ハボックもイメージ通りだった。

イメージ通りだった人はもうたくさんいて挙げたらキリない。

エドやアルはイメージ通りというわけではないんだけど演技が上手いので受け入れられる。

難しい役だろうにすごいなと思ってた。

殺陣が特によくて、男性が多い舞台は喧嘩が映えるな〜と思ってたけどホークアイ中尉まで体術上手すぎて、あ、男女関係ないわすみません、てなった。

 

個人的MVPはマルコー。

もう原作漫画から出てきた感じだった。

実力派揃いの舞台で1番演技惹きつけられた。

実力はもちろんあるけど私の個人的な好みでもあると思う。

なんか印象的。

しかも歌まで上手い。

この歌い方すごい好き。オペラ歌手?

幕間入った瞬間名前調べた。

そして衝撃的なことに気付いた。

まって、レミゼのジャベールじゃない!?

絶対そうなんだけど!

私が小学生の頃に一目惚れしたジャベール警部じゃん!?

観劇オタク、小学生の頃の推しに運命の再会。

阿部裕さん。泣ける。

好きな作家は泉鏡花らしい。

私は「外科室」が好きです。

 

あとスライサー兄弟。

鎧の頭と身体で本当に別れているみたいだった。

「スライサーの兄の方」とか書きそうになった。

両方同じ人ですよね?

話し方がすごく印象的で好み。

刀剣を使った殺陣を鎧の衣装着ながらここまでできる!?って思った。(スーツアクション)

この場面はエドも上手くて、特に天で交差した剣を脚を高くあげて蹴り飛ばすところがすごかった。

殺陣得意な人を集めた舞台なんだなと思った。

 

泣ける場面が多かったんだけど、ウィンリィがアルに怒る場面が1番劇場にすすり泣き響いてた。

原作ファンが多いだろうから脚本は多少端折っても話は通じる。

だから他の名場面にはそういう端折りを感じてしまうんだけど、この場面は演出もすごく上手かった。

アルの苦悩やウィンリィの怒りには切実さがあり、演技力の高さも相まって初見の人の心にも訴えかける強さがあったと思う。

私もこの場面が1番感動的だと思った。

 

原作が本当に神のような作品なので舞台を見る目が厳しくなってしまう…という自覚はあったので尚更見るのが怖かった。

けどよかった。

オペラグラス持っていくの忘れたのだけが悔やまれる……。

ハガレン、永久に愛される作品であってほしい。

 

出演者情報

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そごう美術館「日本の切り絵 7人のミューズ」を見て

そごう美術館で切り絵を見てきた。

画像はすべて撮影OKエリアで撮ったもの。

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すっごい。

切り絵一度挑戦してみたいな。

習い事の時間が迫ってたので駆け足で見ることになったのが悔やまれる。

チケット2枚もらってたし2回みればよかった。

 

ミューズってギリシア神話に出てくる……なんだっけ。

芸術の神様だったような。

7人の切り絵作家の作品が紹介されている。

以下ひとりひとり見ていく。

 

蒼山日菜さんの切り絵、ポップで童話っぽくてかわいい。

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服のひだの繊細さが際立つ。

少女趣味。

バレエやってる方なのかな。

躍動感がそれっぽい。

どっかでみたようなと思ったら森永のお菓子のパッケージだった!

チョコチップクッキー、マリー、ムーンライト(大好き!)、ホワイトチョコチップクッキー、ブラックムーン、チョイス、アーモンドクッキー。

知らないうちに見てた。

これ切り絵だったんだ!


次、切り剣Masayoさん。

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海の生き物大好き。

ウロコ、貝殻の質感、タコの皮膚の感じを紙の切り方で表現する。

リアルに見えるけどよく見ると模様がレースだったりする!

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カニックな深海魚もよかった。

どうして機械化された動植物って魅力的に見えるんだろうね。

生き物の特徴を捉えるのがうまい。

 

SouMaさん。

切り絵を立体化する発想が目から鱗だった。

裏側を鏡にするとか「鼓動」のタイトルに合わせて背景を赤青2色にするとか工夫がアーティスティック。

 

筑紫ゆうなさん。

カラーの切り絵は海外の絵本ぽい。

動物を擬人化してるんだけど身体のバランスが独特で引き込まれる。

彩色が淡くて可愛い。

どんな物語を考えてこれを生み出したんだろう。

 

福井利佐さん。

幽玄美のシリーズはもはやぱっと見で切り絵なのかわからない。

よく見るとなるほど写真の切り絵!

切り絵に光を当てて影を作品とする手法とかも上手いなと思った。

切り絵の時点ですごいんだけど影を見るとまた印象が変わる。


柳沢京子さん。

日本風の温かみのある作品が特徴的。

一番好きなのは「奈良井の雨」。

1枚の紙で雨を2色で表現してるのがすごい。

他の作品も描いたものではないかと思ってしまう。


松原真紀さん。

糸の表現がとにかく細かい。

「世界」の蜘蛛の糸のやつとか。

赤い紙からたくさん金魚を切り出したやつもすごい。

よく見るとちゃんと金魚同士が繋がってて1枚の紙から切り出されてるってわかる。

糸の表現の得意なことをいかして金魚のヒレの筋まで繊細に表現していた。


展示会場を出てミュージアムショップを見たら切り剣Masayoさんのシードラゴン、蒼山日菜さんのユニコーンが売られていた。

2つともそれぞれ2人にぴったりのいいモチーフ!

海の生き物はなぜか子供の頃から魚よりシードラゴンが好きで水族館でずっと見てた。

ギリシア神話の幻想動物ならユニコーンが好き。

私の古い記憶にあるシードラゴンが切り絵になっていて「うわーなつかし!切り剣Masayoさんも水族館でシードラゴン眺めてたタイプかなぁ」とシンパシー感じた。

ユニコーンはまつ毛まで細かく表現してたのと首に巻かれたリボンとフリルがメルヘンで蒼山日菜さんのカラーが出ていた。

そしてミュージアムショップに谷崎潤一郎「陰翳礼讃」が置かれててセンスいいなと思った。

この展示見た後は読みたくなるね。

 

もっとじっくり見たかった…。

美術館は今年もっと行きたい。

ルーブル美術館展もディオール展も行きたいんだけど妹付き合ってくれるかな。

芸術新潮を読んでから行きたいんだけど読まなければならない本が渋滞しててなかなか手が回らない…。

いや、図書館で借りて本当そろそろ行こう。

「天空の城ラピュタ」を見て

初見は物心つく前。

始まり方よくわかってなかったけどナウシカの不穏さにも似た物騒な展開だった。

シータは家宝として持ってる飛行石を狙われてムスカに誘拐されてるところだし、そこにシータにとって第2の敵であるドーラが襲撃してくる。

シータはどさくさに紛れてワインボトルでムスカを殴って気絶させたあと飛行船から転落。

ドーラたちはシータのことなど気にせずシータの持つ飛行石のことばかり話してるから、ドーラたちはシータの仲間ではないし助けに来たわけでもないことがはっきりわかる。

怒涛。

でも「え、え、ちょっとまって。は?」ってならないからすごい。

ちゃんとついていける。

 

一方…という感じでパズーが登場。

本日残業とのことで間食にミートボールを買ってる。

子供の頃毎日パパとママが難しい顔して「残業残業」言ってて、どういう意味かわからないけど大人の世界の言葉だなって思ってたから私と同じ子供のパズーが「残業」という言葉を理解して使っていたのがすごく大人っぽくて羨ましく見えた。

大人になったら残業なんかやりたくなくてもできるのに子供の視点って斬新〜。

てか子供に残業させるな。

それSDGsじゃない?

SDGs的にアウトじゃない?

質の高い教育をみんなに。

誰かパズーに教育を!

その後パズーは飛行石の力を過信して高いとこから飛んで落ちて煉瓦造りの屋根に死んだかと思うような穴開けたのに片付けるでもなく後悔するでもなく笑ってシータに「あっちで顔洗って〜!タオルもあるよ!」とか言う。

フワちゃんの血の継承者か?

破天荒すぎて爆笑してしまった。

友達になりたい。

 

場面が代わり、ドーラたちがシータを探しにくる。

逃げた先にムスカの仲間が。

パズーはすぐシータの敵がドーラたち海賊だけではないことを理解する。

パズー、機転がきくしコミュ力高いし勇敢で優しい。

ジブリ男子イチのイケメンはポルコだとおもってるけどパズーもいいな。

教育受けてないとか言ってごめん。

SDGsだけが正義じゃない。

 

炭鉱に降りた2人はラピュタと飛行石の関係を知る。

パズーの父が見たという天空の城はシータの持つ飛行石という石の不思議な力によって天に浮いているのだった。

そしてシータは飛行石とともに母から「ラピュタ」の名を継いだことをパズーに打ち明ける!

このシーンめちゃくちゃワクワクする。

嘘つき扱いされた父の汚名返上のため天空の城を探すパズーと、その天空の城の名前を持つシータの邂逅。

 

シータが秘密を打ち明けると同時に2人は軍隊に捕えられた。

ムスカからラピュタの真実を聞かされるシータ。

ラピュタは圧倒的な科学力で天空に浮かび地上の国を支配する王国で、シータの正体はラピュタの王位継承者であるリュシータ王女だった!

シータはムスカのいる軍に従い、ラピュタの調査に協力することになった。

パズーとさよなら。

 

しかしパズーが家に帰ると海賊ドーラたちが食事中!

ドーラ「金であの娘を売ったか。お前を助けるためにつれない態度取ったに決まってるだろうが。(息子たちに)嫁にするならああいう子にしなよ」

この場面でドーラとパズーの緊張関係が急にゆるむ。

エンタメでよくある「敵だった人が仲間になる展開」だ。

ハウルの動く城」でも荒地の魔女がこのドーラ的な役を担っている。

でも「ハウルの動く城」では「荒地の魔女が味方になるのは違うと思った」って言う人いるけど、「天空の城ラピュタ」の「ドーラたちが途中で仲間になるのはおかしい」って言う人いなくない?

この違いってなんなんだろう。

比較して考えてみる。

荒地の魔女は弱体化して、主人公サイドがそれに情けをかけた形で仲間になった。

対してドーラは弱体化していない。

パズーは家の柱にくくりつけられているからむしろ主人公サイドの方が弱い。

パズーはドーラを仲間にするのではなく「仲間にしてくれ」と頼んでいる。

ドーラはパズーを仲間にするメリットを感じてOKを出す。

(パズーを仲間にしておけば飛行石を扱うのに必要なシータがいうことを聞いてくれるかもしれないため)

こう考えると、敵が味方になってくれる場面は敵側が弱くなって主人公が敵を従えるという形より、主人公サイドが弱く敵に従う形の方が展開に説得力が出るのかもしれない。

 

パズーはドーラたちとともにシータの救出に成功!

しかし救出前にシータは飛行石を落としてしまい、飛行石はムスカの手に渡る。

飛行石はラピュタの方向に光を放つ。

 

ラピュタの正体を知りたいというパズーとシータはドーラの海賊船に乗る。

飛行中の家事全般を2人が担うという条件付きなのでドーラの息子たちは大喜び。

「無条件で仲間にしてもらえるわけではない」ことは大事なポイントそう。

ハウルの場合は荒地の魔女を交換条件なしで許して信頼してしまったから物語のリアリティが緩んでしまったのかもしれない。(原作では荒野の魔女は改心しない。でも代わりに荒地の魔女と契約した悪魔が人間の姿をしているという設定の解説があり、荒地の魔女亡き後もこの悪魔要素の薄い人間と戦闘しなければならないカオス展開なのだ。明らかにジブリ版の方が良い)

話をラピュタに戻そう。

ドーラの率いる海賊たちは財宝を狙ってラピュタを目指す!

 

夜、パズーたちはムスカに追いつかれる。

「飛行技術が進歩しているからいつかラピュタは見つかっちゃう」というパズーの台詞が印象的だった。

設定の開示方法が上手い。これSFなんだ。

そしてムスカのいる軍の飛行船の名前、ゴリアテ

ゴリアテ旧約聖書に登場する巨人の怪物だったと思う。

大きくて戦力のある飛行船に命名するセンスが良い。

 

突如現れた「竜の巣」。

パズーは父の話を思い出す。

ラピュタは竜の巣の中にある」。

ラピュタの世界観好きすぎる。

「立派な町だ。科学も進展していたのにどうして」

パズーの台詞いいな。

圧倒的な科学力で天空から地上世界を支配していたラピュタがなんらかの原因で衰退し、町が池に沈んで王宮(?)はツタに覆われている。

なんだか「けものフレンズ」的なロマンがある。

 

ラピュタゴリアテも上陸。

ムスカは飛行石の力を使ってラピュタを取り巻く雲を払ったらしい。

シータが捕えられてしまう。

ムスカは軍の無線機を全て壊したことでスパイ容疑をかけられ軍から追われる。

王族しか入れないというラピュタの深奥にムスカとシータは入り込んでいく。

木の根をかき分けていくとそこには巨大な飛行石がある。

ムスカの本名はムスカ・パロ・ウル・ラピュタ

もともとシータと同じ王族だったのだ!

地上に降りてから血筋が2つに分かれたらしい。

旧約聖書のソドムとゴモラを滅ぼした火がラピュタの砲撃らしい。

天からの硫黄と火で滅ぼされた都市。

ヤハウェ(ユダヤ教の神)の裁きらしい。

旧約聖書ネタ、ゴリアテだけじゃなかった!

 

パズー、死ぬ覚悟でシータと共に滅びの呪文「バルス」を唱える。

ラピュタは全壊せず、王宮だけを残して空高く上昇していく。

ラピュタを築いた人々がいつかラピュタを戦艦として使う人間が現れることをおそれてこの仕組みにしたんだろうな。

王宮の庭ではあのロボット1機が花を摘み、鳥と戯れる日常の継続が約束される。その描写。

パズーもシータも無事に帰って来られる。

海賊たちとは楽しそうにさようなら。

 

傑作だった。

見終わった瞬間2度目が見たい。

物心つく前からこんな上質なエンタメに触れてたなんて贅沢すぎる。

SFってあんまり読んでないけど名作は田中芳樹銀河英雄伝説」とか筒井康隆「パプリカ」のイメージで、専門知識をつけて世界観を作り込まなければ書けないと思ってた。

天空の城ラピュタ」は結構サイエンスの設定ざっくりしてるけどそれでも面白い。

SFってこんな感じでもいいんだ。

書いてみたいな〜〜〜。

 

 

 

妹のコンサートに行って

赤坂のバーで妹がフルートを吹くという。

「みんな真面目に聞いてるから緊張するんだよね。わかりやすい場所に座って読書でもしててくれる?」

とのことで、妹の演奏を聞き流し読書をする…ことになった。

そういう状況で何を読もうと考えると、カポーティの小説の村上春樹訳かなと思う。

気取りすぎ?

(海外文学はあんまり良さわからないけどトルーマン・カポーティジュール・シュペルヴィエルJ・D・サリンジャーグレアム・グリーンは好き)

てかこれ打ちながら今バッグの中確認したらなんか間違えて山本周五郎「さぶ」持ってきてた。

うける。周五郎読むわ。

 

まずコンサートに行く前にジャズダンスのレッスンだけは休みたくなかった。

アラビアンの最終回だし、何より先生からお菓子もらう約束してるから。(子供か)

ということで仕事→ジャズダンス(90分)→妹のコンサートのハードスケジュールを組むことに。

先生からはビスキュイテリエブルトンヌもらった!!

センスよすぎ!!!

私このダンス教室でよかった。

 

で、音楽の話。

妹は7歳からフルートを吹いている。

私もずっと練習を聞いていたので大人になった今もたとえカルテットであってもどの音が妹の音かわかる。

同じ楽器を吹いていても音に個性があるのだと実感できて面白い。

今日はフルート2ピアノ2だけど。

 

第一部

1曲目、花のワルツ(ケーラー)。

フルート二重奏。

妹が低いパートだった。

妹の友達が上パートなんだけど上パートも聞き覚えがある。

両方吹けたんだ?

私の妹はとにかく肺活量がすごい。

だから肺活量の少ない上パートの人の方が繊細な吹き方をしているように感じる。

コンクールだとどちらが審査員の好みかみたいなことで受賞者が決まるんだろうな。

それにしてもダイナミックさと繊細さの両立って難しそう。

 

2曲目、2本のフルートのための協奏曲 第1楽章(チマローザ)

チマローザ好き。

古典派→バロック時代(貴族が貴族のためにつくる曲)→大衆音楽。

バロックの特徴が濃い曲らしい。

宮廷でこういう音楽を貴族たちが聴いていたのかなぁと思いながら聴くの楽しかった。

貴族が貴族のために演奏した音楽が現在の日本にも残ってるなんて感慨深い。

この曲、ピアノ演奏も好き。

2本のフルートの伴奏だけど3人で1曲を作ってるという感じでちゃんとピアノにも見せ場が用意されている。

小さな舞台みたいでいい。

 

3曲目、「ベルがマスク組曲」より 月の光(ドビュッシー)。

ピアノ独奏。妹の出番なし。

ドビュッシーがモネ(印象派)の影響を受けて作った曲だから全体的にぼやけている。

聴いた後はワインが美味しくなるらしい。

ワイン頼めばよかった。

 

4曲目、「3つの小品による組曲」より アレグレット(ゴダール)。

妹のソロ。

走り出した幼い女の子を「まってまって」と捕まえにいくイメージで演奏するらしい。

「私も音を捕まえにいきます」と言って吹き始めたのがよかった。

曲に入っていける気がする。

アレグレットってあんまり有名な曲じゃないんだ?

妹が小さい頃からよく練習していた曲なので大人になってからバーで聴くとは思わなかった。


5曲目、花は咲く。

フルート独奏。妹の出番なし。

100年後、震災を知らない人が聞いても何かを感じられるようにという曲。

吹きこむ息が優しい。(妹と比べてしまう)


6曲目、見上げてごらん夜の星を(ボサノヴァバージョン)

身内の演奏を評価するの難しい。

妹の演奏は音が大きいのがいいのと高音が上手い。

これ間違えてない?って時も直後に「あ、そういうテクニックか」ってなる。

間違えてんのかな?

だとしたら誤魔化すのうまい。


第二部

「音楽を始めたきっかけは?やめたいと思ったことないの?」と酔ったお客さんから質問。

妹がフルートを始めたのは小1で、その頃の妹には犬猿の仲の同級生がいた。

「そんなこともできないの?」と煽られて妹はその子を殴り倒してしまう。

この事件をきっかけにうちの両親は妹にフルートを習わせようと決めたのだった。

フルートを習ってる7歳児ってそういないので、何か言われても「私にはフルートがある」と思えれば同級生を殴らなくて済むだろうという算段である。

小1の入学式で同級生殴り倒した話ここでするんだ?と思って笑ってしまった。

「ぶんぶんぶんはちがとぶ」を泣きながら演奏した時はさすがに辞めたかったらしい。

「でももう体の一部だからやめられない」と言っててその気持ちはわかるような気がした。

私にとって身体の一部になってしまったものは小説なのだと思う。


1曲目、四季のぽぷり(中山育美)。

日本歌曲のエモさが詰まった曲。

エモってなんでも言うと語彙力なくなりそうだからやめようと思う。

なんだろうね、この場合のエモって。をかし?

いとをかしきメドレーでござったな。

中学の時お琴でやった「桜」をピアノとフルートで吹いてて斬新に感じた。

「さくら〜さくら〜」が「778〜778〜」にしか聞こえない。

てか最後の方もしかしてタンギング使ってた?

あれどうやって吹くの?

明らかに普通の息の使い方じゃなかった。

あとで聞こうかな。

 

2曲目、春よ来い(松任谷由美)

フルートとピアノ。妹は出番なし。

ネットで歌詞調べて追いながら聴いた。

切ない音が素敵だった。

よく知らなかったけど歌詞いいな。

流行曲とか名曲の歌詞って片っ端から調べたらそれの刺激だけで小説書けそうだよね。

行き詰まったら一度やってみようかな。

 

3曲目、舟歌(ショパン)。

ピアノソロ。妹の出番なし。

ヴェネツィアのゴンドラ漕ぎが歌う舟歌は8分の6拍子。

波に合わせて歌う感じらしい。

ショパン舟歌は8分の12拍子。

ショパンの不安定な心の揺れを表現しているのではないか、と演奏者の方は考えているそうで、それを表現した演奏となった。

舟歌」はショパンが恋人との別れと肺結核(当時は不治の病)で絶望してた頃に作った曲だそう。

美しいメロディに痛みと孤独が散りばめられる。

なんだか豪華絢爛&劇的な演奏で「美しい」という言葉では弱いように感じる。

言葉の限界を感じる音楽というものがあるんだなぁと思った。

 

4曲目、パルティータ 第一番(バッハ)。

ピアノソロ。妹の出番なし。

7つの舞曲から成り立つ。

300年ほど前に作曲されたバロック音楽だそう。

当時はダンスが上手いとモテたとか。まじか。

ダンスが上手いと「かっこいい!」と思われたから舞曲が作曲されたのかな、と演奏者は考えているそう。

うん、ダンサーは現代でもめちゃくちゃかっこいいよ。

300年前のダンスってどんな感じだったのかな。

私が毎週踊ってるマイケル・ジャクソンも300年後にはピアノの楽譜になっててスリラーを演奏するピアニストがいるのかしら。

席がよかったのでピアノの手元がよく見えた。

鍵盤の上を指が踊るみたいに飛び跳ねるのがいい。

この見た目も意識してダンスの曲を作ったのかな。きっとそう。

たしかパルナッスム博士だっけ?

右手で旋律を弾きながら左手の指で右の指の隙間を突く弾き方、そういうのがあるとは聞いたことはあるけど初めて見た。

 

5曲目、シシリエンヌ(フォーレ)

妹のソロ。

禁断の恋に落ちた2人が湖のほとりにいる曲。

なんだかギリシア神話チック。

幻想的でミステリアスな始まり方をする。

むかしむかしあるところに……みたいな雰囲気。

小学生の頃から何度も聞いているはずなのにこういう感想を持つのは始めてかも。

 

6曲目、協奏的三重奏 第一楽章(クーラウ)。

フルート二重奏かつピアノの見せ場も多い作品なのでかなり装飾的で華やか。

なんだかんだ本を読む隙がない。

聴き入ってしまう。

 

7曲目、ピアノ連弾「くるみ割り人形」より花のワルツ(チャイコフスキー)。

ピアノ連弾のため妹の出番はなし。

何百年前の人も同じ曲を聴いていたのだと思うとなんだか壮大な話だなと思う。

これを聴きながらお酒飲んでご飯食べられるのは贅沢。

今更思ったけど連弾を前提に作曲するって割と気が狂ってるよね。

人間腕2本しかないのに4本ならこれだけ弾けるみたいなこと考えたわけでしょ?

あーでも素敵だな。

こういう狂気は忘れずに創作したい。

 

演奏が終わった後、バーを出ようとしたら妹に捕まって第一声「私の演奏よりピアノが好みだったでしょ」。

なんでわかったんだ。

「あの席は鍵盤がよく見えたからそちらにばかり目が…」と言い訳を重ねて仮説を補強してしまった。

いやでも久しぶりに妹の演奏を聞けてよかった。ほんとに。

次のコンサートも絶対行きたい。

あと音楽ちゃんと勉強してみたいと思った。

シシリエンヌみたいに物語性の強い音楽もあるし、ショパンとかバッハが作った曲と歴史の関係性とか調べたら絶対面白いだろうな。

音楽と物語は密接に結びついていると思う。

ミュージカルだってそう。

逆にいつから小説とミュージカルは別物になったんだろう。

音楽、ダンス、歴史、全部好きだし体系的に結びつけた小説があったら読みたい。

論文なら探せばありそうだけど小説はないかな。

まずは論文から読むか。

 

音楽聴きながら食べたレッスン後のグラタン美味しかった。

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「レ・ミゼラブル」を見て

視聴したのは映画のDVD。(2012年)
舞台の初見は小学生の頃。
児童向けに書かれた原作を読んでから観劇に行ったと思う。
この作品、登場人物がひとりひとり魅力的なんですよね。
エポニーヌ、ジャベール、ジャン・バルジャン、マリウス、コゼット……。(好きな順)
初見の舞台はジャベール警部が一番印象的だった。
役者さん誰だったんだろう。
ジャン・バルジャンを追い詰めてきたジャベールが信念と人情の狭間で自死を選ぶ場面、小説で読んだ時も衝撃的だったけど舞台で観た時のさらなる衝撃は 大人になった今でも忘れられない。
たしかジャベールの独唱?独白?→投身自殺の演出だった。
ジャベールが橋の上で激しい葛藤をしている映像が今も頭の奥に残ってる。

 

物語はジャン・バルジャン(罪状:パンの窃盗)が仮釈放になるが前科のために社会的信用を失い、貧困をしのぐために教会から銀食器を盗むことに始まる。

ところが聖職者(神父さま?牧師さま?)が「これも持っていきなさい」と銀の燭台を渡したことでジャン・バルジャンは改心する。

前科を隠して市長をつとめるようになった。

たぶんだけど、ミッションスクールに憧れたのはレミゼのこの場面の影響なんだと思う。

市長になったジャン・バルジャンは紆余曲折あって恵まれない市民のファンテーヌを看取ることになり、彼女の娘コゼットを養女とすることに決める。(ジャン・バルジャン、本当に成長したな…)

ファンテーヌの独唱「夢やぶれて」もこの作品の魅力のひとつ。

https://m.youtube.com/watch?v=JzDNDhV8Yqg

ファンテーヌから「コゼットは意地悪なテナルディエ夫妻の宿屋で働かされている」と聞き、ジャン・バルジャンはコゼットのもとへ急ぐ。

コゼットの「こ〜の雲〜のう〜え〜に〜♪」大好き。

https://m.youtube.com/watch?v=JG7sszWLpfk

小学生の頃劇場で聴いたのを覚えてる。

子供の頃は完全にコゼットに感情移入していたのでジャン・バルジャンの登場には本当に安心できた。

パパはもとからいなくて、大好きなママも死んでしまって心細い中、こんな優しい人が欲しかった人形を買ってくれて手をつないで歩いてくれて「パパの代わりになるよ」って言ってくれたら本当に救われるだろうなって。

映画ではあまり触れられてないけど、コゼットは宿屋で働く間、宿屋を営むテナルディエ夫妻とその娘エポニーヌにいじめられていた。

(エポニーヌは毎週幼馴染のマリウスと教会に行くのだけど、コゼットのことは省いたりとか)

 

時が経ち、テナルディエ一家は没落してしまう。

貧しくなったエポニーヌとは反対に、コゼットは裕福になっている。

ジャン・バルジャンとコゼットは貧しい人々にパンを恵むんだけど、なんとそうしていたらエポニーヌと再会。

この時のエポニーヌの屈辱ったらないだろう。

しかも悪いことに、エポニーヌの積年の片思い相手である幼馴染のマリウスがコゼットの優しさと美貌に恋してしまうのだった。

私がコゼットよりもエポニーヌを愛する理由はここに始まる。

たいていの人間はコゼットではなくエポニーヌではないだろうか。

自分が富める時に弱者をいじめる弱さを持つ。

そしてその弱さのために手痛いしっぺ返しをくらう。天罰的な。

私自身も「逆境でも健気にがんばれるコゼット」と「ちょっと実家が太いからって調子に乗るエポニーヌ」ならどちらが近いかと言われたら間違いなく後者だ。

そりゃコゼットでありたいよ。

私だってコゼットでありたいよ。

でもエポニーヌなんだ。

人としての弱さ・醜さを憎みながらも捨てられずに抱えて苦しみながら生きるエポニーヌだ。

エポニーヌも「コゼットに生まれることができたらよかった」と強く願ったに違いない。

マリウスはエポニーヌの積年の恋心に気付かずコゼットへの思いを深めていく。

 

フランス革命ってどうしてこうも舞台映えするんですかね。

革命推進派のマリウスたちと制圧を試みるジャベールの両視点で革命が描かれるところが上手い。

革命を阻止しようとするジャベールは民衆側にスパイとして入り込む。

危険な任務をすすんでやるところが芯の強いジャベールらしい。

ところが民衆にすぐにばれて囚われてしまう。

王族や貴族が民衆を虐げる旧制度を解体しようと革命を起こす民衆の中にはマリウスもいる。

兵士らの砲撃を受けたマリウスは自爆を装い爆弾を抱えて敵に突っ込む。

敵兵はそれに気付きマリウスを射殺しようとするが、エポニーヌが身体を張ってマリウスを守る。

マリウスの代わりにエポニーヌは銃弾を受けた。

エポニーヌの死に際してマリウスは初めてエポニーヌの気持ちを知る。

エポニーヌのこの報われなさ。

私が愛してあげるからね…という気持ちになる。

 

ジャン・バルジャンはエポニーヌがマリウスと相思相愛であることを知り「宝物を失うことになる」と恐れるが革命で命を落とすかもしれないマリウスの元へ急ぐ。

そこで囚われのジャベールに再会するのだった。

ジャベールはジャン・バルジャンに殺されると思っがジャン・バルジャンはジャベールを逃してやる。

ジャン・バルジャンを悪党と決めつけ逮捕のために長年追い回していたジャベールだが、これでジャン・バルジャンの懐の深さを知ってしまった。

皮肉にも、ジャン・バルジャンを監視していたジャベールが一番、ジャン・バルジャンの人格者たる資質を理解していたのではないか。

 

その後革命軍は窮地に追い込まれる。

ガブローシュ(子役)の演技上手すぎた。

この子日本で言う芦田愛菜ちゃん?

え、芦田愛菜ちゃんって子役時代に銃弾で撃たれて死ぬ演技できた?

ガブローシュ、銃弾がかすった時と致命傷を負った時の演技両方やってたけどどっちもリアルだった。

死んだふりも上手すぎる。

なにこの褒め方。でもすごいから本当に。

 

怪我を負ったマリウスを助けたいジャン・バルジャンはマリウスを背負って下水道を逃げる。

逃げた先にいたのはジャベールだった。

ジャン・バルジャンはマリウスだけでも助けるように懇願するがジャベールは銃口を向ける。

ところが引き金を引けなかった。

私、エポニーヌと同じくらいジャベールが好き。

正義感の強い警察官のジャベールは罪人ジャン・バルジャンの逮捕の機会を追い続けていた。

ところがそのジャン・バルジャンは一度ジャベールの命を救っている。

ジャベールは命の恩人であるジャン・バルジャンを撃つことができなかった。

冷徹なほどに正義を追求するジャベールの中に渦巻く人間くささが溢れるシーン。

しかしジャン・バルジャンに救われたことで「ジャベール」は死んでしまったのだと思い詰めたジャベールは身投げしてしまう。

正義の人であるが故に捨てきれない人間としての善性が苦しい。

 

生き残ったマリウスはコゼットと再会。

二人は結婚することになる。

マリウスはジャン・バルジャンに一緒に住もうと提案するが、ジャン・バルジャンは前科をマリウスに告白してコゼットには黙って旅立ってしまう。

マリウスは結婚式の会場でテナルディエから「ジャン・バルジャンが革命で死んだ若者を背負って下水道を歩いているのを見た」と聞き、瀕死の自分を助けてくれたのはジャン・バルジャンだったのだと知る。

マリウスはコゼットを連れてジャン・バルジャンがいるという修道院に向かう。

修道院ではジャン・バルジャンが瀕死。

ファンテーヌの幻覚を見ている。

ファンテーヌは「コゼットを愛してくれてありがとう」と微笑んでいる。

そこに駆けつけるコゼットとマリウス。

2人はジャン・バルジャンと最期の時を過ごす。

ファンテーヌはジャン・バルジャンの命を天に導いていく。

ジャン・バルジャンが死んだからか外の世界には革命で死んだはずの友人たちが勢揃い。

あのレミゼといえばという定番の革命の歌を歌っている。

https://m.youtube.com/watch?v=1q82twrdr0U

なんかこのへんは小説の方が泣けた気がする。

でも歌と演出が素敵なので文句ない。

 

何を表現するか、どう表現するか。

創作において大事な二つの、両方を高い水準に磨き上げた作品だと思った。

特に映画やミュージカルは「どう表現するか」の工夫の幅が広いのがいいな。

でもこんな傑作を見ても一部「ここは小説の方がいいな」と思わせてくるからユゴーすごい。

「ハウルの動く城」を見て

ファンタジー小説を書きたい」と先生に言ったら「ジブリ村上春樹路線で」と言われた。

それでジブリ作品を見直して感想を書いているわけだけど、とくに私の理想とするファンタジーの世界観に最も近いジブリ作品が「ハウルの動く城」。

 

原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「魔法使いハウルと火の悪魔」。

久しぶりに見るので原作も読んでみようと思い読み始めて気付いた。

これ小学生の頃に読んだことある。

当時はカイ・マイヤー「鏡の中の迷宮」シリーズが大好きだった。

やっぱり私の好みはこのあたりなんだなぁと懐かしくなる。

(ちなみに村上春樹は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が一番好き。ユニコーンの描写がとても魅力的なため)

 

ジブリ版のハウルも好きだけどキャラ立ちという意味では原作の方が強烈だし好みかも。

ハウルは「灰色と真紅の服」を着て女の子たちを次々に虜にするんだけど、ジブリではこれを配色そのままにアーガイル柄に仕立ててるのがお洒落で可愛い!

ミュージカルの舞台に冴えない衣装着てる人なんか1人もいないし(冴えないように見せる素敵な衣装を着てる人はいる)、やっぱり登場人物の衣装はひとつ残らず素敵であってほしい。

ここは自分でもこだわって造形したいと思った。

ハウルの「青と銀の服」もジブリで再現してほしかった。

私の頭の中にはこんな感じだろうというデザインがある。

でも想像のままにしておくのが一番綺麗なんだろうな。

 

ハウルは悪魔のカルシファーと契約を交わしている。

ソフィーがこの契約を解くことができれば、カルシファーがソフィーの呪いを解いてくれるらしい。

ソフィーは契約を解けるのか、もとの姿に戻れるのか。

この謎が物語の中心にある。

ただ契約の内容もハウルカルシファーと契約した理由も明かされないので釈然としない。(私が見落としてる?)

ハウルカルシファーに心臓を渡す代わりに…カルシファーハウルに魔法を与えたのかな?

だからサリマンが認めるようにハウルの魔力は強いのだと思う。

サリマンは「強力であるが故にハウル荒地の魔女のような魔法使いになってしまうかもしれない」と懸念してるわけだけど。

ということは荒地の魔女も悪魔と契約したことがあるのかな。(原作ではそう)

しかしそんな描写は出てこないので消化不良感。

物語の終盤、カルシファーが抱える心臓をソフィーがハウルに返したことで契約は解除される。

それはわかるとして、なぜハウルカルシファーと契約しなければならなかったんだろう?

「強力な魔力が欲しかったから」では理由として弱い気がした。

カルシファーが契約をした理由は、原作によると「生き延びたかったから」らしい。(流れ星は地上に落ちると死んでしまう。カルシファーハウルにキャッチしてもらえた)

そして結局ソフィーの呪いはカルシファーではなくソフィー自身が解いてしまう。

素敵だとは思うけど、カルシファーが解く約束だったんだから、この物語の中核ともなるその約束を反故にするならもうちょっと納得させてほしかった。

 

次にソフィーの呪いについて。

カルシファーはソフィーにかかった呪いを「二重の呪い」と表現しているんだけど、荒地の魔女の呪いと自分の呪いを二重にかけているという意味なのだなと思った。

荒地の魔女による「老女になる呪い」が解けても、ソフィーは自分で自分に「老女になる呪い」をかけていて解けない。

ハウルが言った「美しくなければ生きている意味がない」にソフィーが泣き出す場面は子供の頃に見た時も印象的だった。

10代の頃って自分ほど醜い人間はいないんじゃないかって思う日があるよね。

ちょっと好きかもしれない人から「美しくなければ生きている意味がない」なんて言葉聞いたらそれは雨の中駆け出して泣き出したくもなるよ。

荒地の魔女がソフィーにかけた「老女になる魔法」の解き方は恋をすることなんだろうな。

その荒地の魔女が中盤から味方になるのも面白い。(ここは好み分かれそうだけど)

このあたりからソフィーの顔が明らかに若返ってる。

ハウルへの想いが強くなっているって表現なのかな。

 

引越しをすると言い出すあたりから明らかにハウルの気持ちがソフィーに傾いてるんだけど、ハウルはいつからソフィーをそんなふうに見るようになったんだろう?

ハウルは命かけて魔法で鳥に変身して戦争に出ているわけで、「やっと守りたいものができたんだ。君だ」とかソフィーに言うわけだけど、え、いつから?

まって私がにぶい?いつから?

そこから荒地の魔女に「恋だね」と指摘されるソフィー。

BGMに流れる「人生のメリーゴーランド」 。

妹が音高通ってた頃よくピアノで弾いてくれた。
久石譲、ビッグラブ。

作る音楽全部神じゃん。

いや、けど、けどさぁ。

今まで完全に雰囲気で誤魔化されてたわ。

え、いつ?

ハウルはいつソフィーを好きになったわけ?

 

その後は割と説明不足で駆け足な気がする。

ミュージカルでもよくあるよね。

原作予習してないと絶対追えなくなるやつ。

駆り出された魔法使いたちはみんな怪物に姿を変えて戦ってたのね、って気付くの遅すぎ?

確かに初めてハウルが鳥の姿で登場した時にカルシファーがほのめかしてたけどヒントそれだけじゃない?

 

そして再び物語の中核、ハウルカルシファーの契約について。

カルシファーの中核にあったのはハウルの心臓。

荒地の魔女が心臓を握ってしまい、カルシファーの火に「熱い」と苦しむのを見てソフィーはカルシファーに水をかけてしまう。

その時、ソフィーの指輪(ハウルからもらったもの)が城の扉へと光をさす。

ハウルしか知らない、黒のダイヤルにまわされた扉。

そこでソフィーはハウルの過去を見る。

流れ星を捕まえたハウルは何やら話をし、心臓を与えてしまう。

それがカルシファーになるのだった。

扉を出ると獣に変身したハウルがいる。

カルシファーのもとへ行くソフィーとハウル

ソフィーはハウルに心臓を返す。

ちょっとまって理解が追いつかない。

一旦見るだけで見るか。

子供の頃は感動したはずなのに今見るとソフィーの「未来で待ってて!」と泣くシーン、なんで泣いてんの?って割と冷めた目で見てしまった。

もう10代の情緒についていけない…?

 

ところでカブの正体は隣の国の王子。

愛する者にキスされないと解けない魔法にかかっていた。

子供の頃はこの演出素敵だと思ったけど大人の今見ると「風呂敷広げすぎじゃない?」と思ってしまうな。

「隣国の王子です。戦争やめましょう」か。

うん、悪くはないと思うけど…。

なにこの釈然としない感じ。

 

サリマンは結局どういう立場だったんだろう。

「この馬鹿げた戦争をやめさせましょう」とか言ってたけど。

いやいやいや、ハウルを戦争に駆り出してたのあなたですよね?

 

ソフィーは魔法が解けても白髪のまま。

ハウルの言う「星色に染まっている」は素敵だと思うけどなんで黒髪に戻らなかったの?

それより意識回復した瞬間いきなり彼氏面で困惑したわ。

イケメンだからいいけど。

 

結構謎が残る。

ソフィーがハウルの心臓に水をかけてしまって「ハウルが死んじゃうかもしれない」と泣くとか、ハウルしか知らない黒ダイヤルの扉を開くとか、魅力的な場面展開はあるのにそれを活かしきれていないというか。

世界観がすばらしいのでそれだけで楽しめちゃうけど、大人になった今見ると結構消化不良だった。

そういえば初見の時もパパとママは「別によくなかった」って言ってて子供の私は「えー!?」ってなったんだけど、なんか今その気持ちわかるようになってしまった。

音楽も作画も素敵だしキャラクターも好きなんだけど、話そのものが整理しきれていなかった印象。

でも原作の方がとっちらかってるのでよくまとめた方かも。(何様)

「魔女の宅急便」を見て

魔女といえばホウキとクロネコ

そんなステレオタイプな先入観を利用しながら、醜い老女ではなく13歳の少女を描いた作品。

この時点で魅力的。

子供の頃はキキやジジやトンボの視点で物語を楽しんでいた。

今見るとキキの両親やパン屋の夫妻の目線になってしまう。

13歳で子供が巣立ってしまうって本当に心配だろうなとか、キキは素直な良い子だしほっとけないなとか。

他に感じた作品の魅力は以下の通り。

①少女の心理描写の繊細さ

監督が成人男性にも関わらず主人公の少女の心理をリアルに描くことに成功している。

母ではないけど母代わりなパン屋の奥さん、ギリギリ大人とはいえない年齢の相談に乗ってくれる絵描きのお姉さんなど、こんな人が思春期にそばにいたらよかったな〜と思った。

作り手と主人公の性別が違う場合、良い作品に仕上げる難易度は跳ね上がる。

特に男性が女性心理を描くのは難しいと思うし、さらに年代も違うとなるとほとんど無理。

小説で成功しているのは太宰治「女生徒」くらいだと思う。

宮崎駿監督、アニメ映画界の太宰治かもしれない。

 

②田舎と都会の対比

子供の頃、キキの周りの大人、なんだか冷たい人ばっかりだな〜と思ってた。

大人になって気付いたけど、これはキキの故郷である「田舎」とキキが住むことにした「都会」の対比表現。

あたたかな田舎に慣れ親しみ、それが「普通」だと思っていたのに、憧れの都会に上京してみたら人間がみんな冷たい。

でもそんな都会にも田舎的な人はいて、みんながみんな冷たいわけではなく、誰かが必ず味方になってくれる。

(パン屋さん夫妻、トンボなど)

その小さな希望を頼りに都会を生きていくキキに、自分を重ねてしてしまう大人は少なくないだろうと思った。

 

③わかりやすいハッピーエンド

子供の頃見た時はキキとトンボの関係は単純に「友達」だと思ってた。

でも大人になって見るとこれはキキの両親がたどった物語をキキとトンボが再現していく話なのだとわかった。

この作品で見られた少年少女の日々が、やがてひとつの家族の歴史を作っていく。

「僕も魔女の家庭に生まれることができたらよかった」と言った10代のトンボが、後にキキと結婚して「魔女の家庭の人」になるのだと思うと微笑ましい。

 

★なぜキキは魔法を使えなくなったのか?

結論からいうと、キキは魔法を使えなくなったわけではない。

「使えなくなった」と思い込んでいただけなのだと思う。

子供の頃は「ジジが喋れなくなった」と思ったけど、大人になってから見ると、ジジは単に言葉を失ったわけではないとわかった。

普通の猫にはないはずの人らしさを持っていたジジは、ある時を境に「人らしさ」をごっそり欠落させることになる。

その「人らしさ」の最も強い特徴が「しゃべること」だっただけ。

ジジが失ったのは「言葉」ではなく「人らしさ」だ。

どうしてジジが「人らしさ」を失ったかというと、それは猫の恋人を見つけて「猫の社会で生きていくことを決めたから」なのだと思う。

キキの「魔法が使えない」は、ジジがキキの生きる人間社会を去ってしまったという事実を受け入れられないために作り出した思い込みなのではないかと思った。

「できない」と思い込んでしまうと人は本当にできなくなる。

だから最後の場面、キキは飛べたのだと思った。

トンボの危機を見て「できる」と信じた結果、キキは再び魔法を使えるようになった。

(途中落ちたりするのは「やっぱり無理かもしれない…」という迷いによるものかなと思った)

キキはトンボを助けたことで街全体から好意的に受け入れられる。

つまり、人間の社会に歓迎される存在になった。

猫のジジとは完全に生きる社会を違えてしまう。

テレビの取材を受けるキキのもとに駆けつけるジジは「それでもそばにいるよ」と示しているようだと思ったし、キキもそれを受け入れられた様子だった。

子供の頃は「キキがジジに喋れる魔法をかけていて、それが解けてしまったからジジは話せなくなったんだ」と思ってた。

それ自体がキキと同じ思い込みだ。

私もキキと同じ子供だったということ…よくできた作品だと思う。

物語の初め、キキとジジは同化していたけれど、それが解かれて2つの存在になった。

別々の存在になってもふたりはこれからも寄り添い同じ世界で生きていく、というのがエンディングからも読み取れる。

キキとジジは親子みたいなものなのかもしれない。

私だって生まれる前は「ママの一部」だったわけだけど、やがて別個体として切り離されて、それでもママと同じ世界で生きてる。

そういう関係を少女と猫に例えた物語なのだと解釈した。