魔女といえばホウキとクロネコ。
そんなステレオタイプな先入観を利用しながら、醜い老女ではなく13歳の少女を描いた作品。
この時点で魅力的。
子供の頃はキキやジジやトンボの視点で物語を楽しんでいた。
今見るとキキの両親やパン屋の夫妻の目線になってしまう。
13歳で子供が巣立ってしまうって本当に心配だろうなとか、キキは素直な良い子だしほっとけないなとか。
他に感じた作品の魅力は以下の通り。
①少女の心理描写の繊細さ
監督が成人男性にも関わらず主人公の少女の心理をリアルに描くことに成功している。
母ではないけど母代わりなパン屋の奥さん、ギリギリ大人とはいえない年齢の相談に乗ってくれる絵描きのお姉さんなど、こんな人が思春期にそばにいたらよかったな〜と思った。
作り手と主人公の性別が違う場合、良い作品に仕上げる難易度は跳ね上がる。
特に男性が女性心理を描くのは難しいと思うし、さらに年代も違うとなるとほとんど無理。
小説で成功しているのは太宰治「女生徒」くらいだと思う。
②田舎と都会の対比
子供の頃、キキの周りの大人、なんだか冷たい人ばっかりだな〜と思ってた。
大人になって気付いたけど、これはキキの故郷である「田舎」とキキが住むことにした「都会」の対比表現。
あたたかな田舎に慣れ親しみ、それが「普通」だと思っていたのに、憧れの都会に上京してみたら人間がみんな冷たい。
でもそんな都会にも田舎的な人はいて、みんながみんな冷たいわけではなく、誰かが必ず味方になってくれる。
(パン屋さん夫妻、トンボなど)
その小さな希望を頼りに都会を生きていくキキに、自分を重ねてしてしまう大人は少なくないだろうと思った。
③わかりやすいハッピーエンド
子供の頃見た時はキキとトンボの関係は単純に「友達」だと思ってた。
でも大人になって見るとこれはキキの両親がたどった物語をキキとトンボが再現していく話なのだとわかった。
この作品で見られた少年少女の日々が、やがてひとつの家族の歴史を作っていく。
「僕も魔女の家庭に生まれることができたらよかった」と言った10代のトンボが、後にキキと結婚して「魔女の家庭の人」になるのだと思うと微笑ましい。
★なぜキキは魔法を使えなくなったのか?
結論からいうと、キキは魔法を使えなくなったわけではない。
「使えなくなった」と思い込んでいただけなのだと思う。
子供の頃は「ジジが喋れなくなった」と思ったけど、大人になってから見ると、ジジは単に言葉を失ったわけではないとわかった。
普通の猫にはないはずの人らしさを持っていたジジは、ある時を境に「人らしさ」をごっそり欠落させることになる。
その「人らしさ」の最も強い特徴が「しゃべること」だっただけ。
ジジが失ったのは「言葉」ではなく「人らしさ」だ。
どうしてジジが「人らしさ」を失ったかというと、それは猫の恋人を見つけて「猫の社会で生きていくことを決めたから」なのだと思う。
キキの「魔法が使えない」は、ジジがキキの生きる人間社会を去ってしまったという事実を受け入れられないために作り出した思い込みなのではないかと思った。
「できない」と思い込んでしまうと人は本当にできなくなる。
だから最後の場面、キキは飛べたのだと思った。
トンボの危機を見て「できる」と信じた結果、キキは再び魔法を使えるようになった。
(途中落ちたりするのは「やっぱり無理かもしれない…」という迷いによるものかなと思った)
キキはトンボを助けたことで街全体から好意的に受け入れられる。
つまり、人間の社会に歓迎される存在になった。
猫のジジとは完全に生きる社会を違えてしまう。
テレビの取材を受けるキキのもとに駆けつけるジジは「それでもそばにいるよ」と示しているようだと思ったし、キキもそれを受け入れられた様子だった。
子供の頃は「キキがジジに喋れる魔法をかけていて、それが解けてしまったからジジは話せなくなったんだ」と思ってた。
それ自体がキキと同じ思い込みだ。
私もキキと同じ子供だったということ…よくできた作品だと思う。
物語の初め、キキとジジは同化していたけれど、それが解かれて2つの存在になった。
別々の存在になってもふたりはこれからも寄り添い同じ世界で生きていく、というのがエンディングからも読み取れる。
キキとジジは親子みたいなものなのかもしれない。
私だって生まれる前は「ママの一部」だったわけだけど、やがて別個体として切り離されて、それでもママと同じ世界で生きてる。
そういう関係を少女と猫に例えた物語なのだと解釈した。