「もののけ姫」を見て

ジブリを今見返したらどんな感想を持つものだろうか?と思うのでひとつずつ見ていくことにした。

まずは「もののけ姫」。

初見は物心つく前だったと思う。

大好きで何度も見た。

けど、大人になって思うのは

「なぜこの難解な物語を子どもが楽しめたのか?」

ということ…。

 

もののけ姫と聞いて初めに思い出すのは、小4の時に読んだもののけ姫論みたいな文章。

「そんな見方があったの!?」と衝撃を受けた。

つまり、この物語の主軸は「人間と自然」にあるという話。

アシタカとエボシは人間側、サンと山犬は自然側。

その対立や協力が「自然と人間」の関係性をリアルに示している。

大人にはそんな物語に見えるの!?と目からウロコだった。

わからない人にはわからないなりの楽しみ方を提供し、

わかる人にはさらに深く楽しめる構造を採用している。

これは本当にすごいことだと小学生の頃に思ったけれど、今見てもその感想は変わらない。

 

以下、大人になってから見方が変わった点。

①自然側と人間側は明確に分かれていない

アシタカとエボシは人間側、サンと山犬は自然側、と小学生の頃は受け入れていた。

けど、厳密には分けられないと思った。

あえていうなら

人間←                              →自然

エボシ アシタカ サン 山犬

みたいな感じ。

グラデーションになっている。

アシタカの村の人々に比べてエボシのいるたたら場の人々の方が自然への敵意を強く示していたのが印象的。

アシタカは生まれ育った環境の影響で自然に寄り添える人間になったのだと思う。

たたら場出身ならたぶんイノシシ撃ちまくって祟り神量産してる。

 

②カヤの小刀

何か渡しているなとは思っていたけれど子どもの頃は全く気に留めてなかった。

キレイだな、くらい。

大人になってから見ると切ないスパイスになっている。

大好きなアシタカが村を出ていくことになり、カヤはアシタカの身を案じて小刀を渡す。

アシタカが命を守れるように、という願いがあった。

アシタカもまたカヤを思い続けることを誓う。

ところがアシタカはその後カヤを思い出すことはないし、小刀をサンに贈ってしまう。

アシタカを想うカヤがアシタカに小刀を渡したように、

アシタカにとってはサンがそういう存在になった、という暗示なのだと思う。

しかも物語の終盤、サンは「人間なんか嫌いだ」と叫んで小刀でアシタカの心臓を刺す。

遠くの故郷で健気に思ってくれている恋人(カヤ)と、小刀で心臓を刺してくる美女(サン)。

アシタカが選ぶのは迷う隙もなくサンだ。

「アシタカの身を守れるように」と願って小刀を渡したカヤが知ったらどんな気持ちになるだろう…。

「シシガミが祟りを解いてくれる。いつかアシタカは村に帰ってくる」

と信じているはずのカヤ。

ところがアシタカの祟りは解けなかったし、

最後アシタカはサンにたたら場で生きていくことを宣言している。

カヤのもとに帰るつもりはないらしい。

「自然と人間」をメインテーマにしながら、

あまりにもビターな恋をスパイスとして効かせている。

単純に「遠距離恋愛中の彼女より身近な美女」という捉え方をしてもひとつの真理を突いていると思う。

無慈悲な心変わりの話といわれればそれまでだけど、

単純にそれだけを描いているわけではないような。

ここは深く読み解けなかったのでさらに人生経験を積んだらどう見えてくるのか楽しみ。

 

③エボシの人柄

悪役なんだろうけど不思議な感じ、でもちょっと嫌…。

そんな印象だったエボシは評価が180度変わった。

エボシは、売りに出された女を買い、仕事と生きる希望を与えている。

それは、らい病患者にも。

らい病を扱った文学作品(北条民雄いのちの初夜」など)や聖書を読んだからエボシの立派さというものがよくわかるようになった。

エボシは山を切り崩し神を殺す恐ろしい人間だけど、その反面、キリスト的な深い慈悲と救済の力を備えている。

シシガミが自然の神ならエボシは人間の神なのだと思った。

だからこそ子ども目線では「悪いことしているのに憎めないずるい大人」に見えたのかもしれない。

 

④たたら場の女性たちの強さ

「なんだか愉快で面白い!」という印象の解像度が上がり「魅力的」と感じるようになった。

よく笑い、亭主に軽口をたたき、アシタカをもてはやして楽しそうに生きる彼女たちは全員、人身売買にかけられたという重い過去がある。

「門を開けろ。無礼だ」と言った侍に「私たちは生まれてからずっと無礼さ」とユーモアたっぷりに返す場面にひやりとした。

「ずっと無礼」というのは自分の態度のことだけではなく、

「ずっと無礼な扱いを受けてきた」という意味もあるんだろう。

彼女たちを売り買いするのは主に男性だったはずだけど、彼女たちは男性を恐れないし憎まない。

どこまでも健全な精神で生きている。

ジブリの特徴、強い女性たち。

この人たちのように暗く重い過去すら笑い飛ばすような強さを持って生きていきたい、と思わせる魅力がある。

というか無意識にそう生きろと刷り込まれて育った気がする。

国民の必修科目…。

 

⑤もはや文学的なラスト

もののけ姫のラストはまったくエンタメ向きではないと思う。

「えっ、子どもが見てこのラストって納得できるの?」と思ったけど、

子どもの時に「もののけ姫のラストって納得いかないんだよな」と思ったこと一度もない。

意味はわかってなくて、でもいい終わり方したような気がするからOKと思ってた。たぶん。

「わからないけどいい終わり方な気がする」と思わせることがまずすごい。

 

もののけ姫」は白黒はっきりつけない終わり方をする。

つまり何も解決しない。

アシタカは祟られたままだし、

サンは人間社会に帰ってこないし、

人間と自然の関係性だって変わらない。

自然はこれからも人間にとって圧倒的な脅威。

人間は自然の脅威に絶望してもまた文明を築く。

文明が発達しても自然の脅威は消えない。

きっと長い時間をかけて自然と人間の攻防は繰り返される。

 

アシタカの祟りは解けて、

サンはアシタカと共に人間社会で生きるようになり、

もしくはアシタカが村に帰ってカヤと結婚し、

みんなで自然と人間が共存していく方法を考えよう!

というわかりやすいハッピーエンドにしたら一般ウケするはず。

ところがその全てを裏切って「名作」として広く一般に受容されているところが、

この作品の本当にすごいところなのかもしれない。

この物語は人間社会で生きていくアシタカが、

これからも山で生きていくサンに「会いに行く」と言ってコダマがカラカラして終わる。

アシタカの軸足は人間社会にあり、それ以上サンに近付くつもりはない。

サンに対して「軸足を人間社会に移してほしい」とも願っていない。

たぶん、自然と人間が共存できるかはアシタカにもわからない。

でもアシタカには自然に対して「寄り添いたい」という愛情を抱くようになった。

自然に対して人間ひとりにできることはそれだけなのかもしれない。